大丈夫。
左手だって動かせる。そう思って鍵盤に手を置いた瞬間目の前が真っ暗になった。
分かってしまったんだ。あぁ、この手はもう前の通りに動かない、と。
空色音楽室2
右手だけで奏でる音楽は紙切れの様。
ぺらぺらの裏表がすぐに覗いてしまう音楽。そんなものは私は音楽と呼びたくは無い。
それでも左手を動かそうとすると激痛が走る。もう、あれから3週間経ったのに。
放課後私は第2音楽室へ向かっていた。
あの場所なら姉さんが叫んだときすぐにその声が届くし人もあまり来ない。
そこは私にとって練習するのにもってこいの場所なのだ。
幸い理解ある先生方のおかげであの音楽室は教室棟が閉まるまでは使っていてもいいという許しが出た。
先生方は私を可哀想な人だと思っている。それは構わないけどあぁいう目をされるのは、堪えるなぁ。
くすりと苦笑を零す。
向かう途中、音楽部と書かれた部室が目に入った。
ここに勧誘されたっけな、そう思って不意に立ち止まる。
するとガラリとドアが開いて音楽部らしい人たちが数名出てきた。
そのうちの1人が私を見て、目を見開いて立ち止まる。
「・・・!!」
「あーっ!!」
「さんだ!音楽部見に来てくれたの?さ、入って入って。」
「あ、え?」
髪の短い女の子が私を見て無言で驚き、次に出てきた茶髪の女の子が私を指差して叫び、
髪の長い1度部活勧誘で会ったことのある人が私の腕を掴んだ。
最初の人、いやに驚いてたけど何だったんだろう?
疑問もろくに言えないまま私はその第一音楽室に引きずり込まれた。
「さん、急いでる感じだけど、折角だから1回聞いて感想言ってくれない?」
「いいですよ。是非聞かせてください」
急いでるけど。とはあえて言わない。
音楽に打ち込むのは嫌いじゃない、むしろ好きだ。
練習の途中で来たら追い返してるけどね。
そんな事を思いつつその演奏を聞く。
たった10数人、けれど、さすがに音楽特待生も含まれているだけあってその演奏は伊達じゃない。
でも。
演奏を聞き終わったあと、感想を求められて少し迷ったあと言う事にする。
全体的にはすごく良いということ。
1人1人のレベルがすごく高いから安心して聴いていられること。
それから、もっと協調性を持った方が良いということ。
1人1人のレベルが高いが故にその協調性は欠けている様に思う。
でもそれは悪いことではない、誰にでもありがちなことなのだと。
そして言うかどうか迷った事を口にした。
「トランペットが少しミスが目立つけど、調子でも悪かった?」
すると10数人の目が一斉に1人に向いた。
さすがに耳が慣れているのだろう、私が思ったとおりの人に。
その人はさっき私を見て無言で驚いてた人だ。
驚いていたというには・・・なんていうか驚きすぎだというか違和感があったというか、だけど。
だけど部の人は怒るでもなくなんでもなくにまぁっと笑った。
「だって聞いてよさん。この子さんのファンなのよー。」
「本人目の前にして緊張しちゃったのね!」
「私もファンなんだけど!嬉しい!」
「なんか同年代なのに大舞台にたってて、尊敬しちゃうよね!」
そんなに褒めちぎられても困る・・・、嬉しいは嬉しいけど。
ファンって、私は確かに大舞台に出てるけど世界には出てないのになぁ。
もっと上を目指したかった。それはもう過去形だけど。
持っていた楽譜を少し強く握り締める、目頭が熱い。もうだめだ。
私は「ごめんいそぐから」とだけ言ってその場を後にした。
名残惜しそうな声が後ろから聞こえたけどもう振り返れない。
歯を食いしばってその部屋を出ると、走って第2音楽室へ向かった。
右手だけの音なんかで世界に何を伝えられるって言うの。
珍しい、と笠井はそう口にした。
いつもは放課後に入ってすぐ聴こえてくるメロディが今日はなかなか始まらない。
2軍はともかく、サッカー部の殆どが頭のどこかでそれを考えているようだった。
「よう」
「三上、遅かったな。」
「悪ィな渋沢。監督と教師に呼ばれててよ」
三上先輩が来て何事か渋沢先輩と話すと、先輩まで何か違和感を感じたように頭を掻いた。
「おいバカ代、笠井。今日休みか?」
「バカ代って酷いッスよ三上先輩!・・・ちゃんならいましたよ。ねぇタク?」
「はい。朝から。先輩に聞けば分かると思いますけど?」
「バカ言ってんなよ。あいつと1対1で話してみろ。渋沢のお怒りを買うぜ?」
あぁ確かに。俺はそうですねとだけ言うと第2音楽室を見やった。
まだ明るい空の色を恨めしく思うほど時間を気にして。
誠二の声に時計を一瞥してランニングをはじめた。
一軍の練習は結構キツイ。それは当たり前だ。練習をしなければサッカーは上手くならない。
だが1時間ほどするとコーチは大声で1軍を呼びつけた。
休憩らしい。だがそれを前もって聞いていなかったさんはドリンクだの何だのをあわてて用意していた。
3軍もばたばたと動き始める。
夏も真っ盛り、じりじりと照らす太陽の下でそう長くは連続してプレーを続けられない。
熱中症にでもなったら困るからだとコーチは言っていた。
武蔵森ともなれば自己管理位自分でしろ、とあの桐原監督なら言いそうだけどと誠二が言うのに頷く。
まだ音楽は聴こえない。
「はー…どうしたのかな、今日も音楽室のはずなのに」
さんはドリンクのボトルを抱えて溜息をついた。
そのすぐ後ろには渋沢先輩がタオルの籠を持って立っていた。
1軍の、しかもキャプテンがマネージャー業なんてと誰かは突っ込むかもしれないけど、これがうちのトップです。
さんと三上先輩が言うには家庭に優しいタイプだろう、とのこと。
「あぁ。心配だな・・・笠井、悪いが見てきてもらえるか?
が行くのがベストかもしれないがこっちの仕事も多くてな。
疲れているとは思うがやっぱり慣れた人が行くのがいいだろう?」
「はい、分かりました」
俺はその言葉に内心よし!とガッツポーズをして座っていた階段から腰を上げる。
誠二が余計な事を言っているけど気にしない。あぁ気にしないさ。
俺はタオルを一枚掴むと校舎に向かって走った。
第2音楽室へついて扉を開けると、ピアノの前で立ちすくんでいるが映った。
なんだ、いるじゃないかと弾んでいる息を落ち着かせながらそこへ向かう。
は俺に今気がついたように顔を上げた。
その頬は濡れていて、少し赤くなった外の灯りに水滴が光った。
「かさい」
「?どうした?」
「もう弾けない」
「?」
今まで泣き言を言わなかったが唇を噛み締めて零すように呟いた。
静かに静かに流れる涙を、不謹慎にも綺麗だと思ってしまう。
俺が包み込むように手を伸ばすと、は何も言わずに受け入れた。
俺の腕の中で涙を流すを、護りたいと思った。
これが幼馴染から好きだという感情に変わる最後の一押しだった。
「音楽が好き。ピアノが好き。ピアノで何かを伝えるのが私の生きがいだった。
でももうできない。こんな手じゃ何も伝えられない、笠井、約束守れないよ」
ずっと昔に交わした約束を彼女はまだ覚えている。
俺がサッカーに専念すると決めたときには俺に言ったのだ。
『竹巳くんがサッカーで世界に行くなら私は音楽で世界に行く。』
それを糧に俺は生きてきた。だからここでも1軍になろうと努力したんだ。
覚えていてくれた。守ろうとしてくれた。それでいいと、俺はが泣き止むまで言い続けた。
「笠井がクラスにいなかったら私はきっとひとりだったよ」
2,3日前の帰りに交わしていた言葉のやり取りも何もかも俺は忘れてなんていないよ。
教室棟が閉まる時間になってやっと、俺はをつれて部に出た。
監督はキャプテンが説得しておいてくれたようで何も怒られなかった。
は3軍の手伝いをしていたけれどどこか元気が無くて。
さんに帰りに話があるといわれて頷いた。
俺は結局まだ何も知ってはいなかったんだ。
++++++++++++++++++
あとがき。
ちょっと長くなった上に予定のところまで進まなかった・・・。
おかしいな。次で入ればいいんだけど。
笠井くんは書くのが難しいと思う。